北海道人格教育ニュース 第2号 2015年3月発行
第1回北海道人格教育フォーラム(要旨)
人格教育の基礎としての宗教性
加藤 隆(名寄市立大学教授)
アフガニスタンの子どもたちの目はキラキラしている。この子どもたちは片道1時間から2時間かけて通学しており、国民の年収は日本の十分の一であるが、こうしたハンディーが逆に子どもたちの目を輝かせているのではないか。次に、現代日本の教育の縮図と思われる事例を2つ紹介する。1つはNHKクローズアップ現代では、日本の児童擁護施設が親の虐待などが要因で預けられた子どもたちで常に満杯の状態であることが取り上げられていた。もう1つは、OECDの調査において世界の15才の子どもで「孤独を感じる」と応えた割合は、日本が29.8%とずば抜けて高く、次はアイスランドの10.3%という結果が示されていた。これら背景としては現代社会のメンタリティーが、すべてをお金で解決し、それ以上の価値を見出そうとしない風潮や多くの人々が確信を持てず、哲学をもてない状況などがあると思う。
多くの心ある人々はこれら問題の根深さにうすうす気づいている。それは、戦後教育の根幹である教育基本法を通じて我々日本人に投げかけられた「教育と宗教性」というボールに正面から向き合ってこなかったがためではないかと。100年前に内村鑑三が「日本が滅ぶとしたら、科学、芸術、富、愛国心の欠如からではなく、人間の真の価値についての認識、崇高な法の精神の感覚、人生の基本的原則に関する信念の欠如からである。」と語った言葉は、こうした日本の現状を的確に予言している。
「教育と宗教性」のボールについて3つの観点から考えて見たいと思う。第1に心理学者A.マズローの自己実現理論から見て行きたい。彼は、人間は生理的欲求、安全の欲求、所属と愛の欲求、承認と自尊心の欲求という欠乏欲求を満たしただけでは満足せず、さらに自己実現の欲求という存在欲求を満たして初めて喜びあふれる状態になるとした。また、晩年彼は、この上に自己超越という段階があると発表している。私は、欠乏欲求は私性の追及であるが、自己実現欲求は他者のためにという他者性を追求することであり、宗教性に繋がっていくのではないかと思う。
第2に盲ろう者として初めて東京大学教授になった福島智と心理学者V.フランクルを通して考えたい。福島氏は9才で視力を失い、18才で聴力を失った。彼は、絶望の中から「この苦渋の日々が俺の人生の中で何か意義がある時間であり、俺の未来を光らせるための土台として神が与えたものであることを信じよう。それをなすことが必要ならば、この苦しみをくぐらねばならないだろう。」と己の人生の意味を見いだし、指点字を習得して周囲とのコミュニケーションを図った。また、フランクルも収容所生活の体験から人間は意味のあることに生きる存在であるとし、さらに「我々が人生の意味を問うのではなく、我々自身が問われているのである。」と述べ、問われている存在としての人間を示した。
第3には戦後、教育基本法を制定する際に、教育の目的を「人格の完成」と主張する田中耕太郎と「人間性の開発」とする務台理作の間で大激論が交わされたことを取り上げる。内村の門下でもあった田中は「人格の概念は、人間が動物と神との中間的存在であり、自由によって自己の中にある動物的なものを克服して、神性に接近する使命を担っていることを内容とする。」と述べ、その主張が教育基本法に反映された。しかし、教育の現場では最初からボタンのかけ違いがあって、人間の身体的側面のみ強調したり、人間を部品として捉えるような教育がなされ、様々な場面で「これで良いのか」と問われ続けてきた。
最後に、大賀蓮を紹介する。縄文時代の遺跡からこの蓮の花の種が3つ発見され、これらに発芽の環境を与えたところそのうちの1つが花を咲かせ、その後毎年花を咲かせている。つまり、宗教性という種も環境さえあれば発芽するのだ。
<ディスカッション>
参加者:グローバル化のなかにあって、宗教を学校ではどのように教えるべきか。
加藤講師:まず、知識としての宗教教育は行うべきだ。教育基本法にも謳われているが、教育現場ではバラつきがあるので、学校全体としての取り組みが大切であると思う。
山谷会長:道徳の時間の中では、宗教の精神性などを扱うこうとは可能である。
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